よくいる57歳の日記

そこらへんによくいる56歳の日記

うちにくるひと

うちに誰かが来るというのは、

・宅急便の配達の人

・書留の配達の人

・訪問販売の人(太陽光発電とかプロパンガス変えませんかとか)

・新聞の集金の人(地方紙をとっている.)

友達がお菓子をもってきて、こっちは珈琲を入れて録りためたtVをみてあーだこーだいうとか、何か目的を共有する人が打ち合わせに来てくれるとか(10年以上前、のらにゃんのTNRをしていたころは、そういうこともあった)、そういうことがしょっちゅうあるのなら人生は楽しいが、残念ながら、最近はあまりそういうこともない。

 

30年以上昔、母親が生きているとき、実家にいると、よく母親の友人が訪ねてきた。母親より10歳くらい年上、小柄で白髪のショートカット、眼鏡をかけて元気な、おばあさん初心者って感じの人だった。顔も声も、忘れることはないのに、今日は名前が思い出せない。母親も亡くなって15年も経つので、もう過去の過去の中の光景になっている。仮にAさんとしておこう。

 

うちの母親は家にじっとしていられない人だったので、だいたい居ない。なので、

「あがって待ってれば?お茶入れるけど」といっても、「トイレ行きたくなっちゃうし、運動のために歩いているからいい」といって、あがらずに去っていく。

 

ある日、いつものように、「あがって待ってれば?」といったところ、「じゃあ待ってる」といって、珍しく自分の淹れたお茶を飲んでくれた。「美味しかった」と飲み干して、10分ほど待ってたけど、母親は帰ってこなかった。「帰ってこないから行くね」と別れた。これがAさんに会った最後になった。

 

湯呑は縦長の筒状の、寿司屋で使うようなやつだった。

 

Aさんは借りていたアパートのトイレで亡くなった。トイレが血だらけだった。自殺だったそう。

 

後に母親から聞いた話。精神の病はあったそう。お金持ちの家に産まれたので働かずに生きてこれたが、早くに親がいなくなったため学校にきちんといっておらず、字が読めなかったと。どこかに行くにも駅でいちいち駅員さんに料金を聴かねばならず、字が読めないのは哀しいほどに不便だよね、と母親はしみじみいった。学校に行かなかったのは、そもそもが今でいう学習障害のような病もあったのだろうと思う。雲一つない空と向かい合っているような天真爛漫な明るさが、今思えば病の裏返しだったのかと。

 

実家のある街に越してきたのは、妹に変な男がくっついていて、その男が自分にも近寄ってくるので、気持ちが悪いから生家を離れたということだった。

 

火葬の関係なのか町内の民生委員が、その「男」からの香典返しだといって、むき出しのお茶の袋に赤白の熨斗がついたものを持ってきた。その民生委員のおばさんは、赤白の熨斗をみて嗤った。嗤っていいところかよ?と思った。

 

後に母親は言ってた。Aさんが何かあったら使えといって、お金をくれた。そのお金をすぐ使わないように持っていたら、お金を貯められるようになったそうだ。うちの母親は17歳のとき、父親が死んで、親一人子一人になって母親を養わなければならなかった。たけど、中学を出て集団就職した地元企業C(カメラの会社ね)はつまらないからってすぐやめてバスガイドになったり、浮かれたアタマだったところに、とにかくはなしにならない男(*)と結婚して3人子供を産んだため、ずっとずっと貧乏だった。とにかく貧乏だった。お金なんて持っていないのが普通だった。子供ができてからは、借りて返して、また借りて…なんとか生きてくのが普通だった。それが、Aさんからもらったお金のおかげで変わったのだ。

 

(*)父親については、1929年生まれの漁師ではない船員といえば、船舶不況に人生の主要部分が重なっていて、どんな人生だったのか想像できる人もいると思うが、極端な運の悪さにそれを自覚できない世間知らずがあわさって、とにかくめちゃくちゃな生活を送っていた。

 

誰も来ない家に、ひとりでいると思いだす。

 

ちなみにAさんの骨はうちの墓に母が入れた。母が亡くなったとき、わたしが母の名前と一緒に墓石に名前を入れたんだった。わからなくなっちゃうから入れておきなよ、と墓苑の人もいってたので。なので、墓にいけば名前はわかるね…。