よくいる57歳の日記

そこらへんによくいる56歳の日記

柿食えば

柿の季節になりました。

柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺 

この句は夏目漱石が鎌倉で詠んだ

鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺 

という句の、いまでいうところのパロディ?

元の漱石の句は仲間うちでつまんない句と言われていたらしいが、子規の句は、JRの大人の休日CMみたいな空間が広がる名句。若いときから結核とたたかっている子規の病躯が、今、奈良にいるよ、ということまで加えると泣ける。

 

正岡子規は、ちょっと旅行でもしてくれば?と旅に送り出してくれた夏目漱石のことを想って、法隆寺でこの句を詠んだ。旅行代金は漱石のおごりだったらしい。

漱石がロンドンで神経衰弱に陥ってる間に、子規は力尽きて死んでしまった。もっと外国のこと教えてくれよ、という子規の手紙に返事も書けなかった自分を、帰国した漱石は悔いた。教職を辞して書いた初の新聞小説吾輩は猫である』の単行本は子規にささげられている。子だくさんだったし、養父と実家の間でお金に苦労した漱石が、教え子にも慕われていた漱石先生が、東大の先生を辞めても小説を書こうと思ったのは、子規に手紙を書けなかった後悔からきているところが大きかったのだろう。

 

ロンドンの神経衰弱… 漱石はメンタル弱かったわけではなく、明治維新のその時代はちょっと才覚のある男子はことごとくお国のためのエリート道を歩かされ、常にマックスの出力で努力、一時的に疲れたのだろうと思う。完璧なKing's English を習得して留学した漱石にとって、コックニー訛りが飛び交うロンドン市中はストレスだったともいわれている。

 

人生、巧くできるかできないかわからなくても、病みそうになってもやるしかないことがあるよね、と思う。56歳、49歳で亡くなった漱石よりもばばあだが、目を覚まそう。